おはようございます。魔太郎です。
肺がん末期の叔父の介護を引き受けたのが令和6年9月のこと。
介護の様子はこちらから。
末期がんの叔父を甥である私がサポートしていく記録:その①「突然の連絡」 - 還暦Gちゃんブログ (gblog60.com)
叔父が令和7年1月に亡くなり、介護の経験からの気づきなどをお伝えします。
第6回は、お葬式がすぐに出来ないお話です。
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叔父が亡くなったのは令和7年1月12日のこと。
施設から「いま息を引き取りました」と電話があったのが夕方4時過ぎでした。
4時40分ごろ施設に行くと、ちょうど訪問医も到着。
医師が何をされていたが覚えていないのですが「午後5時14分です」と言われました。
あとで知ったことですが、医師の宣告で死亡時間が決まる流れのようです。この時間が死亡診断書に記載されていました。
私はすぐに葬儀社に連絡を入れました。オペレーターは遺体の引き取りの時間は、折り返し連絡しますとのこと。
しばらくして「込み合っており3時間後になります」とのこと。
少々驚きましたが、ここまでくれば流れに任せるしかありません。
ところがです。オペレーターの次の言葉に言葉を失いました。
「葬儀は最短で1週間後になります。その間そちらでご遺体を安置してください」と。
葬儀社の方では出来ないのですか?
と尋ねると「どこのホールも今は満杯で申し訳ない」の一点張りでした。
宮崎では一時的に遺体を安置する民間の施設もないとのこと。
結局、父の家に運んで毎日ドライアイスを交換して安置していました。
あとで聞いた話ですが、宮崎では令和6年12月あたりからお葬式が遅れがちになり、年が明けてからは1週間後になってきたそう。
父の家は一軒家でしたが、アパートなど間取りの少ないところでは
どうなるのだろう?
と心配した魔太郎でした。
次回は、介護で辛かったことのお話です。
では、またね!!
施設側のスタッフさんが叔父の着替えをしている間、訪問医と話をすることができました。
叔父が11月に緩和ケア施設に入所した最初のころ「私の余命はどのくらいですか?」と聞かれたことがあったそう。
訪問医は「春ぐらいまで、とお話したことがあります」と、しみじみと話してくれました。
この話を聞いて私は やりきれない気持ち になりました。
叔父は私たちが面会に行くと、とても喜んでいました。
でもね、叔父はひとりの時間のときに「自分は近いうちに死ぬ」という恐怖と直面していたことを感じたからです。